“ただそこにいる”ことが許される場所へ SOIL & SOUL リトリート体験レポート

一般社団法人日本オントロジカル・コーチング協会は、2025年11月1日・2日の2日間、秋の深まる長野県小布施町にて「SOIL & SOUL~土と魂~」と題したフィールドリトリートを開催しました。

日々の忙しさからふと離れ、自分の身体と心の声に耳を傾ける時間。頭で考えるのではなく、自然のリズムに身を委ね、自分の“感性”を取り戻していく。そんなひとときを求めて、各地から参加者が集まりました。

この記事では、リトリートの2日間を、参加者の視点からお届けします。
自然の中で起きた小さな気づきや、土に触れたときの静かな感覚が、あなたの中にもそっと届きますように。

書き手:もっち
夫婦で広報・ライター業を営む。今回で、リトリートキャンプへの参加は3回目。

前回のレポート記事はこちら:

初日の空気に触れた瞬間、「あ、ここでやっと息ができる」と思った

小布施町に向かう電車の中、窓の外に広がる信州の風景を眺めながら、不思議と胸の奥がそわそわしていました。

「小布施町は、今回の自分にどんな“癒し”をくれるだろう」

そんな期待と、初めて訪れる場所への戸惑い、そして「はじめまして」の人たちと出会うとき特有の小さな緊張が混ざった感覚。

仕事もプライベートも慌ただしかった10月。
気づけば浅い呼吸のまま過ぎていく日々を“なんとなく”続けていた私にとって、小布施へのリトリートはまるで逃避行のようでした。

小布施駅に到着。

りなさん、そして参加者の皆さんと軽くあいさつを交わしたあと、早速、畑へ。

畑へ足を踏み入れた瞬間、ふっと身体が軽くなる。有機肥料独特の、酸っぱいような匂い、土の匂い、陽射しのあたたかさ、遠くに見える山並み。

空気は澄んでいて、深呼吸すると肺の奥まで空気が届くような感覚。

「ただそこにいるだけで、ちゃんと息ができる」

そんな不思議な安心感がじわっと広がり、“迎え入れられた”ような感覚がありました。

土に触れた私の中で、ゆっくりとスイッチが切り替わる

今回のホストは、小布施町で微生物農法に取り組まれている工藤さん。朗らかな表情の奥に、確かな芯の通った語り口。そんな工藤さんの言葉に導かれ、まずは畑の土に触れるところから始まりました。

手のひらに広がる、ふかふかの土。
温度は感じるのに、温かいとか冷たいとかではなく、ただただ「生きている」としか言いようのない存在感がありました。

ああ、なんだろう。この“帰ってきた”感じ。

「野生動物のように、生きた野菜をそのまま食べてほしい」
そんな工藤さんの一言でスイッチが入り、畑の恵みをもぎ取り、その場でむしゃり。ピーマンも、なすも、春菊も、ラディッシュもとにかく濃い。でも、どこか丸くてやさしい。身体にすっと入ってくる味でした。

今回植えるのは、雪深い冬を越えて育つというたまねぎの苗。なんて強い作物なんだろう。
その苗を一本ずつ、丁寧に土に差し込んでいきました。一本、また一本。
ただ植える。それだけの動作なのに、無心で繰り返し、気づいたら深い瞑想のような時間になっていました。

日々のざわざわも、仕事の焦りも、頭の片隅に小さく残っていた不安も、気づいたら全部、吹き抜ける風と一緒に飛んでいってしまったよう。

手を動かし続けていると、自分の中の静けさの層がどんどん下へ下へと広がっていき、
「今、この瞬間にだけ、生きている」
そんな感覚が生まれてきます。

普段の私は、どうしても「伝える側」「整える側」
そんな役割のクセのようなものが抜けないときがあります。

でも、この場所ではその“鎧”みたいなものがするりと外れて、
ただの「一人の人間」としてここにいられた。

そんな自分に出会えたことが、じんわり嬉しかったです。

Farm to Table──「いただく」という行為が、体の奥から変わる

収穫した野菜をみんなで囲んで食べる時間は、「食事」という言葉ではとてもおさまりきらない、まったく別の体験でした。

畑作業の合間に運ばれてきたのは、工藤さんのお野菜がふんだんに使われた特製のお弁当。

葉物の瑞々しさ、焼き野菜の香ばしさ、浅漬けのやわらかい酸味。
どれもシンプルで素朴なのに、ひと口ごとに「生命力」という言葉がぴたりとはまるほど、まっすぐな味がしました。

「ああ、さっきまで土の中にいたんだな」
「この葉っぱ、さっき畑で食べたやつだ」

そんなふうに、野菜と自分の距離がいつもよりずっと近くにあることを感じていました。

夜には、250年以上の時を重ねた茅葺き屋根の日本建築が美しい「Café de 珈茅」さんへ。やさしく灯る照明の下、食卓に並んだ色とりどりの料理。湯気の向こうに感じる、野菜そのものが放つ生命力。

「生きているものをいただいている」

土に触れ、手を動かし、汗をかき、苗を植え、畑の呼吸を感じたあとだからこそ、そのすべてが一皿の中にまるごと宿っているように思える。

この日食べた野菜は、ただ“美味しい”だけではありませんでした。
五感すべてで「いただく」という行為そのものを、体の奥で味わわせてくれました。

言語化できない曖昧さこそが、生きる世界の「本質」かもしれない

翌朝。

冷たい空気がまだ少し残る時間に、私たちは工藤さんが育てているリンゴの木の前へと集まりました。

セッションは、言葉を交わさず“ただ感じるだけ”の時間から始まりました。

風が葉を揺らす音、車のつくる振動、リンゴ越しに広がる空。

何かを“考える”というより、
体の奥で過去の自分がゆっくりと呼吸を取り戻していくような、不思議な感覚がありました。

その静かな時間のあと、工藤さんがぽつりと口にした言葉が胸に残ります。

「育てるんじゃなくて、育つのを手伝うんです。ただ、よく観察して、その変化を待つだけなんですよ。」

農業の世界に正解はなくて、
工藤さん自身も「分からないことだらけ」と言います。
だからこそ、“解釈を与えすぎない”姿勢を何より大切にしているのだと。

木の声を聞きながら、
ときには枝に添え木をして方向を少し導いてあげたり、
ときには何もせず、ただ季節の流れに委ねたり。

自然と向き合うということは、
自分の願いを押しつけることでも、
ただ放置することでもなく、
“対話する”こと。

そのことを、目の前のリンゴの木が静かに教えてくれたように思いました。

そしてそれは、今自分が向き合っている子育ての本質とも通じるなあと、しみじみ感じたのでした。

“分かりやすいことがすべてではない”
今回のセッション中、ずっとそのことを考えていました。

自然の営みは曖昧で、人間の都合では動かなくて、
でもその曖昧さの中に、確かなリズムと知恵が宿っている。

むしろ私たちが日常で置き去りにしがちな“曖昧なまま感じ取る力”を、自然はずっと持ち続けている。リンゴの木の前で過ごす時間は、そんな力を思い出させてくれるひとときでもありました。

手を休め、呼吸を整え、ただその場に立つ。
ゼロの状態、フラットな状態でいられる感覚。
何も付け足さず、何も削ぎ落とさず、ただ自分が自然の一部として在ることの心地よさ。
その感覚が、ゆっくりと体の奥に広がっていきました。

同じ時間を過ごしたのに、感じた世界が違うという豊かさ

セッションの終わりに、全員が感じたことを共有し合いました。

驚いたのは
同じリンゴの木を見て、
同じ風に吹かれ、
同じ時間を過ごしたにもかかわらず、
出てくる言葉がみんな違ったことです。

ある人はリンゴの木から生命力を受け取り、
ある人はそれに「会社員としての自分」を重ね、
ある人は「だれかの成長」を思っていました。

その言葉の端々に、その人の人生が滲み出ていて、その違いが“個性”というより“尊さ”として響いてきました。

同じ体験をしても、
そこから立ち上がる世界が違う。その豊かさを実感しながら、私は自分の感覚も否定せず、ただ受け止めていることに気づきました。

リトリートって“贅沢な時間”だと思っていたけれど、
実は、“生きるために必要な時間”なんだと感じます。

「がんばっているはずなのに、心がついてこない」
「本音がどこにあるのか分からなくなっている」

そんな心の迷子のような感覚も、土は、風は、木々は、
ちゃんと受け止め、ちゃんと返してくれるのだと実感しました。

小布施から届いたリンゴを食べながら、リトリートは終わっても、この感覚は日常に持ち帰れることを改めて感じています。忙しい毎日の中でふと立ち止まり、土や風や木々を思い出すだけで、心の中心に立ち返り、自分自身と向き合うことができる
そんな、小さくも確かな力をくれる時間でした。

この記事を書いた人

KimuraRisa